雨を知る彼
彼は、不思議な人でした。
出会ったのは大学の文芸サークル。私が二年生の時に、彼は一年生でサークルに入ってきました。
聞くと、物語を書くことは小さい頃から好きだったそうです。あまり他の人に読んでもらったことがないと言っていた彼は、その時は普通の人だなという印象でした。
でも、雨の降るある日、彼は言いました。
「雨はね、この世のすべてのものを洗い流してくれるんですよ」
そう言った彼の顔は、どこか誇らしげでした。まるでこの世のすべてのことを知っているかのように、自信を持って言ったように聞こえた私は、「すべて?」と訊きました。すると彼は、「そう、すべて」と、短く一言。
すべてがどこまでを指しているのか、私には理解できませんでしたが、雨が好きな人なのだろうとは思いました。
またある雨の日には、彼はサークルの部室で小説を書いていました。「今書いているのは大人の恋愛小説ですよ」と、少し笑って言う彼は、やはり物語を書くのが好きな人のようでした。
でも、小説を書いていた彼は、急に立ち上がり、部室を出ていきました。何か飲み物でも買ってくるのかなと思いながら、私は彼が書いている小説の第一話を読ませてもらっていました。
主人公は働く女性。仕事に追われ、日々に疲れていた彼女に、新入社員の後輩の男性が仕事のパートナーとして配属されるといった第一話でした。
細かい情景に、主人公の心情も伝わってきて、物語の導入部分としては面白いなと思った私でした。
そこまで思って、ふと気がつきました。彼が部室を出ていったきり戻ってこないのです。何か飲み物を買うなら自動販売機は近くにあるのに、おかしいなと思ったその時、ガチャリと音を立てて部室のドアが開きました。
そこにいたのは、頭も身体も濡れた彼でした。
私はびっくりしました。何が起きているのか頭の整理が追いつかなかったといってもいいでしょう。すぐに彼に駆け寄り、「ど、どうしたの?」と、少し詰まりながら訊きました。
彼は、「雨に自分の心も洗い流してもらおうと思いました」と言いました。
言葉の意味はあまりよくわかりませんでしたが、濡れたままなのもよくないので、私はとりあえず部室にあったタオルを彼に渡しました。頭や身体を拭いている彼の顔は、やはり誇らしげでした。
あれから時は経ち、私も彼も大学を卒業して、それぞれ働いています。
今日は朝からしとしとと雨が降る一日でした。そんな日に思い出すのは、彼のことでした。
彼はただ雨が好きだったのでしょうか。
それとも、本当にこの世のすべてのことを知っている、平凡な私なんかとは『違う人』だったのでしょうか。
あの時、もっと彼に深く訊いてみればよかったなと、今になっては思います。
春から夏に変わる季節の長雨。
私はこれからも、雨が降るたびに彼のことを思い出すのかもしれません。
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